【前編】土方歳三の末裔が公式監修、 新選組結成当時の「鬼の副長」を再現。タナベシン「土方歳三」胸像制作インタビュー

新選組副隊長「土方歳三」の胸像が、新選組ゆかりの壬生寺で披露されました。本作を手がけた造形家・タナベシンさんに制作裏側を伺いました。

 

INTERVIEW タナベシン

——『新選組結成160年「土方歳三像」京都壬生建立プロジェクト』を受けられた経緯とは?

2023年は新選組結成160周年ということで、壬生寺さんのほうで企画が立ち上がっていまして。その企画マネージャーの知り合いが僕の友人の和田真一さんだったんです。以前に伊勢志摩サミット開催記念モニュメントを作ったことがあったし、できるんじゃない?みたいな感じで、和田さんが僕を激推ししてくださいました。

和田さんはクラウドファンディングの返礼品フィギュア(3分の1のNSP製雛形をスキャンして小さくしたフィギュア)の3D関係でご協力いただだきました。

——全身像ではなく胸像になった理由は?

壬生寺にはもともと50年前に建てられた近藤勇の胸像があり、ご子孫の意向もあって副長の土方歳三がそれより豪華になってはいけないので胸像で統一してます。サイズは本物の人間より2割くらい大きい。屋外に置く場合、実寸で作ると小さく見えてしまうので胸像は通常、少し大きく作るっていうのがセオリーかなって思います。

——本作で、一番難しかったことは?

それはもう「似せる」っていう作業です。資料がぼんやりとした写真しかなかったので、その写真の解像度を自分の中で上げていき、みんなが思っている土方歳三のイメージを造形する。歳三さんの顔に見えるラインというかポイントを探すのがすごく難しかったですね。未だに似てるのか似てないのかわからないんですけど(笑)。

あと一つ、「男前」には作らなきゃいけないと思いました。男前で知られてますから。似せなければいけない上、同じ比重で男前に作らなきゃいけないっていうのが難しかったです。

——和装にした理由は?

有名なのは亡くなる少し前に函館で撮られた洋装の写真ですが、壬生寺に建てるので当然、新選組結成当時の姿で再現しなければいけない。だから和装にして、顔も写真よりは血気盛んな顔つきというか、生き生きとして若返らせています。といっても、函館の写真は新選組結成からわずか6年後なんですけどね。

——筋肉もがっちりしているんですね。

「鬼の副長」なので勇ましく作らなければと。ちょっとやりすぎたかな? と思う気もするんですけど(笑)、重い刀を振り回していた当時の武士で、しかも強かったから実際、筋肉はかなりあったと思います。昔のお侍さんの写真が残っているんですが、普通のお侍さんでも中々筋骨隆々だったりするので。

——監修はどなたがされたのでしょうか。

監修は、公式のものとして土方家のご子孫の土方愛(めぐみ)さん。土方愛さんは土方歳三さんのお兄さんの末裔で、毎回確認して許可をいただいてから進めていました。あとはプロジェクトの委員会です。ありがたいことに信頼していただいて、お見せするたびに「どうですか?」「OK!」みたいな感じでしたね。

——お寺のどこに建っているんでしょうか。

壬生寺の中にお堀に囲まれた小さい島みたいな「壬生塚」というエリアがあって、新選組隊士の慰霊碑や芹沢鴨のお墓もあったり、新選組同好会から寄付された慰霊碑などが設置してあるんです。その正面にドーンと近藤さんがいて、ちょっと下がった右隣に歳三さんが立っています。

——献花に訪れる参拝者の方もいらっしゃいますね。

そうですね、ありがたいことに献花台を作らなきゃと壬生寺さんは言っていました。新選組の人気、土方歳三の人気はすごいと感じましたね。

——土方歳三と繋がった?

むしろ親戚と思うくらい(笑)。
お話が来てから出来上がるまで、ちょうど2年間ずっと歳三さんに向き合って来たから、親近感はかなり沸きましたね。親戚くらいに。

——今後、新選組メンバーを順に作っていく?

まったく予定はございませんけど、壬生寺が、新選組パークみたいになったら……(笑)、いいなとはみんなで言っています。

 

 

 

 

 

 

Profile

タナベシン

伊勢志摩出身。物心ついたときから工作好きな少年だった。ガンプラは小学2年からずっと作っていて、プラモが手元にないときはその辺にある素材でなにかしらを作っていた。
小学6年生のときホラー映画にハマり(80年代ホラーブーム)、そこから急激にクリーチャーや特殊メイクに興味を持つようになる。粘土ではなく、針金でエイリアンを作ったこともある。胸から腹までぱっくり割れて心臓や飛び出した腸が仕込んである人体解剖模型みたいなのを粘土で作り、母親を心配させたことも。また、中学生のころに粘土で『バオー来訪者』のバオーの胸像も作った。

大学の専攻は工業デザイン。当時は模型や造形は趣味程度で、原型師になるなんて全く思っていなかった。
特殊メイクに異様に興味があったので、専攻に関係なくハリウッドへの思いが段々と強くなり、卒業後まもなくして渡米(ロサンゼルスへ語学留学)。あても全然なかったが、コネクション作りも兼ねていろいろ出かけ知り合いを沢山作っていく中、フィギュアメーカーで働いている友人が出来て、ちょうどその会社が社内原型師を探しているということで、就労ビザを得るため間髪入れずに面接に行く。
フィギュア制作はあまり人生プランに入っていなかったが、運よく社長に気にいられ即採用、めでたくビザもゲット。
会社でフィギュア原型を制作していくうち、フィギュアというものにのめり込んでいったのでその流れで原型師に。

2007年に帰国。アメリカ生活で強烈に魚に飢えていたので実家の漁師町は天国すぎた。さらに釣りにどっぷりハマり、本当は一時帰国で1年後にまたロスに戻る予定だったのを蹴って、志摩市に住むことを決意。都市部へのアクセスは非常に悪いが、大抵のものはネットで揃うのであまり不便さは感じていない。一番の泣き所は映画館が遠いこと…。

X(旧Twitter):@tanabeshin